ひだまり    今は古事記に夢中! 萩尾望都

アメブロから引っ越してきた過去記事の再公開と、                       もっと日本を知るために「竹田研究会」の紹介を主にしていきます。

萩尾望都が描く原発 ・ 初対談 山岸凉子 × 萩尾望都



ザ・特集:萩尾望都さんが描く原発    より~


漫画家の萩尾望都さん(62)が、

東日本大震災と東京電力福島第1原発事故に触発された作品を相次いで発表した。 

デビューから約40年、少女漫画というジャンルを超える名声を築いた萩尾さんがそこに込めた思いとは何か。 

【田村彰子】


一面の菜の花畑の中に少女が2人、たたずむ。

チェルノブイリの女の子が主人公に渡そうとしているのは、土壌汚染の除去に役立つとも言われる菜の花の

種まき器だ。遠景には、水素爆発などで壊れた4基の原発が--。

小学館の少女漫画雑誌「フラワーズ」8月号(6月発売)に萩尾さんが発表した「なのはな」の一場面だ。


「原発事故後の心がざわざわする日々の中で、最初に頭に浮かんだのがあの場面だったのです。

そして、それを描いてみたいと思った」

「なのはな」は震災で祖母を亡くし、原発事故のために避難生活を送る福島の少女が主人公だ。

学校の友人が次々に転校するなどの現実に直面しながらも、「チェルノブイリ」の歴史を知り、いつか育った村

へ帰ろうと決意する。

「まさに『今』読まれるべき作品」「泣いてしまった」……発表直後からツイッターへの読者の書き込みが殺到。

掲載号も、発売月の後半から売れ行きが伸びるという珍しい現象が起きたという。



69年にデビューし、「ポーの一族」「トーマの心臓」など数多くの名作を生み出してきた萩尾さん。

その作風はSFからサスペンス、ファンタジーまで幅広い。

だが、社会問題を取り扱ったのは公害を描いた71年の作品「かたっぽのふるぐつ」だけという。 

「そういうテーマは、現実には解決しないので漫画に描くとつらい。

だからSFやファンタジーにシフトしちゃったんです」。

そんな巨匠が原発事故に正面から向き合ったことにファンは驚いた。

 

3月11日の地震当日は埼玉県内の仕事場にいた。

原発事故が発生したにもかかわらず政府は「大丈夫」と繰り返した。

そのころを振り返り「不安でざわざわが止まらなくなってしまって」と胸を押さえる萩尾さん。

「もうメルトダウン(炉心溶融)しているだろう」と疑ったが、いくら待っても正式発表がない。

インターネットで調べるとチェルノブイリ原発事故では人が住めない地域があることを知った。

「福島も同じようになってしまうのか」。 漫画家の「胸のざわざわ」はさらに激しさを増した。


そんなさなか、知人から聞いた情報が、萩尾さんを動かした。

「チェルノブイリでは麦やひまわり、菜の花を植えて徐々に土壌を改善させているそうだよ」。

福島でも同様の活動を始めているグループがあると知った。

そこに一筋の光明を見た萩尾さんは、編集者に「菜の花を植える話を描きたい」と切り出した。



描き上げると、編集部に内緒で福島の知人らにコピーを送った。

泣いていた。

8月発売の10月号では、放射性物質のプルトニウムをテーマにした3部作の1作目「プルート夫人」を発表した。

プルトニウムは毒性が強く、福島県飯舘村などでも検出されている。

その物質を擬人化して、魅力的な女性として描かれた主人公が言う。


<優雅で豊かな都市の毎日も……輝く未来も……あなたがたの望みすべてをわたしはかなえてあげる>

<彼女が必要なんだ!>  <彼女は魔女だ!>。

夫人のパワーを使うか閉じ込めるか、人々が論争するシーンは、まるで喜劇のようだ。

 

「プルトニウムは核兵器の材料にもなり得る。

だからこそ国家政策の対象となり、多くの科学者をひきつける存在にもなった。

とはいえ漫画ですから、ちょっぴりこっけいに描いても許されるかな、と思って……」

 

この2作品は「私自身のざわざわ感を抑えることを優先して描いてしまった部分がある」と言いながらも、

エンターテインメント性や少女漫画の味わいは残したつもりだ。


「正しい意見でも直接的だと聞いていてつらい。

つらい話であればあるほど柔らかく言いたいという思いが私にはあるんです。

その意味で心理的に細かい描写ができる少女漫画は、アジテーションをせず、さりげなく言っても読者に伝わる

媒体ではないか」


執筆後は「作者の責任」として積極的にインタビューに応じている。


「私も時代の影響は受けざるを得ない。これまでは、それをファンタジーオタク系の表現に変えてきましたが、

震災や原発事故はあまりに深刻なので、見聞きしたものがそのまま出てしまった。

私にとっては、未来の事象の一片を切り取って現代に持ってきたようなショッキングな出来事。

SFの世界とスムーズに結びついたからこそ描けたのかもしれません」



この震災で、日本の未来が今までとは違う方向に曲がった--

萩尾さんには、その思いが強い。

 

「従来の世界には未練があるので、私自身、このざわざわ感を吐き出してしまったら戻りたい。

でも、もう戻れないんじゃないかという気がします。

日本では原発事故が起こらないと信じていたころ、世の中は何とかなると信じていた、あのころには……」

 

「時代を画するような出来事を受け止め、批評するのは、かつては文学者や知識人の仕事だった。けれど今は、その役割を漫画が担っている」

そう指摘するのは、漫画評論家で神戸松蔭女子学院大教授の村上知彦さんだ。

時代と深く関わった漫画といえば、学生運動が燃え盛った60~70年代の「カムイ伝」や「あしたのジョー」

があるが、それらは「作者が意図的にそうしたというより、読者が時代に沿った読み方をし、作品にも時代性が

取り込まれていった。じわじわと双方が作用しあっていた」。

 

だが、サブカルチャーの枠を超えて今や広範な影響力を持つ漫画は「権威から遠く社会問題に即応して描ける

存在として、より重要性を増している。だからこそ萩尾さんの作品も反響を呼んだ」と村上さん。

 

2人の少女が立った菜の花畑は、萩尾さんの「希望」の象徴だ。

「何とか福島には助かってほしい」「いつか帰りたいよね」と繰り返す。

その思いは、見開きページいっぱいに描かれた菜の花一輪一輪に込められている。


http://mainichi.jp/enta/book/news/20111027ddm013040186000c.html



・・・・・・・・・・・・・・・・・・



この記事も随分前に書いてあったんですが、どんどん埋もれていってしまって・・・ウサギ汗

時期を逸してしまったので放っておいたのですが、これを機にやっぱり出します。


Otome continue vol.6
Otome continue vol.6

発行:太田出版
発売日:2011.05.11
価格:998円(税込)

  • Amazon.co.jp はこちら

山岸凉子と萩尾望都の2万字を超える初対談を掲載。


初対談 山岸凉子×萩尾望都 

出会いと秘密とヨモヤマ話


以下、大抜粋で~


1969年のデビュー以来、常に私たちの心に静かな革命を起こし続けているマンガ界の偉大な女神、

山岸凉子さんと萩尾望都さん。

ふたりの初対談が、現在発売中の『Otome continue』 vol.6 にてついに実現。

2万字を超すロング対談より、一部抜粋してお届けします!

聞き手・文=ヤマダトモコ



―――最近お読みになったお互いの作品で印象に残っているのは?

山岸 私は「春の小川」が……泣きました。もう何年振りだろ。

    ノンフィクションで子どもが病気で死んでしまうとか、そういう体験記はどうしても読んだら泣いてしまうという

    のはありますよね。そうではなく、全くのフィクションで泣いてしまったというのは、もう何年振りだろうな、と。

萩尾 山岸さんにそう言われたら……。

山岸 いやもうほんとに。

萩尾 私は、「テレプシコーラ」が終わって、ちょっとがっかりしていたところに「ケサラン・パサラン」が始まって。

    楽しみに読んでます。

山岸 すみません、また変なのを始めちゃって。

萩尾 以前お家を買われたときの苦労話をちらっと聞いたことがあるので、それがこれから始まるのかなと。

山岸 もう、身の恥をいっぱい。でももう決めたんです、笑われてもいいやと思って、一切描いちゃおうと。

萩尾 あおり文句がいいですよね。「これから家を建てたい人は読まないでください!」って。

―――あの「警告」って文字、どきっとします。

山岸 ひどいでしょう。すみません(笑)。



萩尾 あとは、福島原発事件のいま、話題にするなら「パエトーン」 ですよね。何年の作品でしたっけ?

山岸 これは23年前、88年に発表しているんです。チェルノブイリの事故は86年なんですけど。その少しあとに。

―――いま「新作です」って言われてもおかしくない内容ですよね。

山岸 それぐらい原発の状況がまったく何も変わってないってことですよね。

萩尾 そうですよねえ。作中で、山岸さんがコップを持って「一生このコップを落とさないって言える?」って。

    もしかしたらあるかもしれない失敗を、どうして想定しなくて平気なのかなって……。

―――それにしても「パエトーン」は、すごく先見の明のある、いまも力のある問題作です。

山岸 いまこんなさなかにネットで公開してしまって、かえってみんなの不安をあおるだけじゃないかなと、

    ものすごく気になっているんですけどね。

萩尾 いやいや、十分不安なんだから。

山岸 そうですかね。

萩尾 情報が欲しい状態なんですから。むしろ警鐘として鳴らしていたものが、やっと役に立っている。

    ああなるほど、事故って、起こるんだと、どかっと腑に落ちているという状態ですよね。



というわけで、まだまだ終わらない史上最強の初対談。

お話は“予知夢”や“怖い話”、はたまた『残酷な神が支配する』や『テレプシコーラ』幻の第3部(!)

へと流れていき……。

この続きは現在発売中の『Otome continue』vol.6でお楽しみください!

http://www.ohtabooks.com/otome/backnumber/2011/05/10115152.html



・・・・・・・・・・・・・・・・・


ウサギ

山岸さんの「パエトーン」はチェルノブイリ事故のほぼ2年後に出ていますが、

萩尾さんの「なのはな」は福島の事故後わずか3か月ほどで出ています。

「萩尾望都が原発事故の作品を描いた」と聞いたときはほんとうに驚きました。

「もう?」  と。

早い。 

作品が世に出たのが3か月後だということは、作品が完成し製本され、

いや、その前に、プロットを立て構成を練り直すにかかる時間も考えると、

いったい いつ?、 それを「描こう」と思ったのか・・・

いや、「思った」だけでは描けないので、

どう描くか、どうこの問題に切り込むか、それはもう最初にあったのだろうと思うのです。

それが、もうあんな時期に思い立ち、決心していたのかと思うと・・・

早い。

すごい。

すごい勇気と決断力だと、そしてそれを支える信念の強さだと思いました。

まず、そこから感動しました。


内容は、

最初、あの時期読んで涙しない人はいないだろうと・・・

福島の友人は「読めない」…と言っていました。


でも、萩尾さんの作品のすごさは、普遍的な価値に支えられているという面の他にも、

最初に読んだ感想と、その後しばらくたってから読んだ感想と、

何年、何十年たってから読んだ感想が、読んだ人の人間的成長と時代の成長とともに進化していく・・・

ってことにもあると思うんです。

この「なのはな」も、まさしくそうだと思う。


この作品の中の「家族」ひとりひとりの思いや、決意、悲しみも、きっと、

実際の福島をとりまく状況の変化によって、

読む人の、読んだ時期によって、

捉え方や感じ方が変わってくるのではないかと思います。



萩尾望都の作品はずっと変わらずそこにある・・・

しかし、物事の現象の見方は、

とくにこの原発事故に関しては、刻一刻と変化していくと思います。


あれから、半年以上たった今、今一度読み直してみてください。

そして、一年後、二年後・・・十年後にもう一度読み直してみてください。


きっと、あなたに語りかけてくるものが、少しずつ違ってくるかもしれません。






山岸涼子 『パエトーン』 と 諏訪緑 『鼈霊』(べつれい)


スポンサーサイト

萩尾望都 『半神』

萩尾望都原画展がきっかけで知り合った ばんでびると さんという方のブログ記事を紹介します。

ご本人の承諾をいただいて、ほぼ全文を転載します。

画像 310.jpg
久しぶりに萩尾望都さん「半神」を読みました。やっぱり凄い作品です!
あぁ・・自分の語彙の乏しさが情けない・・でもねぇ、凄いとしか言いようがないんです。
もう、20年以上も前の作品ですが、わずか16ページとは思えないほどの濃密な世界。
このページ数の中に、時間の流れ、愛情、憎しみ、喜び、死が無理なく収まっています。
私の友人たちにもおススメ作品として読んでもらいましたが、友人たちの感想は・・・
「もっとページ数が多いと思った」でした。その後、速攻で文庫本 お買い上げっ。

「半神」は、ページを開いた瞬間から物語に引き込まれます。(原画は本当に美しかった~!)
美しい人形のような少女のアップの下のコマには、醜い顔の少女のアップ。
「私には双子の妹がいます。そのおかげで私の一生はめちゃめちゃです」
この2コマだけ見ると、美しい少女が姉で、醜い妹のせいで一生はめちゃめちゃ?とか
思えるのですが、実は逆。この双子の姉妹は腰の辺りがくっついている一卵性の双子。
画像 311.jpg
妹は人形のように美しいが頭が弱く、姉は頭は良いが容姿が醜い。妹は姉の体の養分を
使って生きているので、姉は養分不足のため醜い風貌になってしまうのでした。
頭が弱くても美しいから、誰にでも愛される妹、頭良くても醜い風貌のため愛されない姉。
体がくっついているために、姉は虚弱体質の妹の杖のような存在。妹に対する憎しみは募るばかり
妹が姉の勉強 の邪魔をしてケンカをしても、父親にお説教されるのは妹ではなく姉である自分。
「知識はあっても やさしい心はないのかい?」←この父親の言葉って残酷ですねー。
2人が13歳になったときに、「分離手術 」の話が持ち上がる。それはとてもあぶない手術だ。
が、姉は手術をする事を承諾する。「妹は死んでも、自分の死すら気づかないだろう・・」
手術は成功し、姉は「ひとり」で寝ていた。妹の病室行くと、そこには美しかった妹の面影はなく
大きらいだったひからびた自分そっくりの妹が寝ていた・・

ラストはネタバレしませんが(というか、既に沢山のひとが書いているので)・・・凄い!とにかく。
もう「凄い」←こればっかり。 ラスト1ページは文字通り「涙が止まらない」です。




。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。



萩尾望都さんのページ数マジックはほんと、すごいですよね~
今市子さんが言ってた「グレンスミスの呪い」もすごいです。

(萩尾氏の「グレンスミスの日記」という「ポーの一族」のスピンオフともいうべき作品で、

いろんな人間の人生が絡み合った長い年月に亘る物語をたった24ページで描き切ったということに衝撃を受けた今市子 が、「貧乏性」とも言われるくらいついエピソード(コマ)をページに詰め込みすぎてしまう・・・という影響(呪い)をいまだに受け続けているという逸話です。)


初期の短編も、あの頃の少女漫画界では異彩を放つものばかり。
登場人物はごく普通の単なる日常生活の一風景なのに、

数分で読める話の中に、大河ドラマや小説を読むような読後感がありました。


この「半神」は設定こそ奇異ではありますが、

人の心の中のどうにも解決できない悲しみがみごとに描かれてますよね。


彼女(名前なんだっけ?)双子の姉が「幸せ」になるためには、

どうしても「半身」である妹を切り捨てる必要があった。

このままでは両方とも「不幸」になると分かっていたから、

「最善」の方法として、せめてどちらか一方だけでも「幸せに」と、

誰もがそう認識してくれた。 「それしかない」と。
でも、それでも、他者(妹)を切り捨てて「幸せ」になった姉は、

一生、自分の「幸福」のために「不幸」をひとりで背負って静かに逝ってくれた妹…

「切り捨てられた半身」のことを思う…。


あらためて思ったことは、

人間が自己の「幸福」を願い叶えるためには、

きっと常にこういう「二者選択」が常に行われているんだろうと思う。

気がつかないうちに、

誰かを何かを、いつも切り捨てているんだ…と。

その切り捨てられた「半身」のことを誰もが忘れている。

いや、「忘れようとしている」・・・ってことを、「グサッ」っとこの作品が突きつけているようでした。


普段は、すっかり忘れていられるのに、

この「半神」では、醜かったはずの自分が、いつしか自分が切り捨てた「半身」とそっくりになってしまった

ことで、どんなに自由で幸福な暮らしをしていようと、鏡に映った姿を見るたびそのことを突きつけられる・・・

静かに微笑みながら、ひからびて死んでいった妹の存在を忘れるな・・・というように。



・・・と、ここまで書いてふと思ったんです。

人生って、世の中って、生きてる限りこういうことなんじゃないか…?  

そう思えてきて・・・、

結局、100%「誰もが幸せになれる」なんて道はこの現世にはないんじゃないだろうか・・・? って、

「全員が完璧に幸せになれる」

なんて方法は、この世にはあり得ないんだって思えてきたんです。


誰かの幸せは、ぜったい誰かの不幸せの上に立っているんじゃないか。

誰かの不幸せが、誰かの幸福を支えているんじゃないか。


その不幸せの度合いとか、受け止め方とかは様々だけど、

幸せになった人を妬む人も 憎む人もいるだろうし、

けっしてそればかりじゃないこともある。

そのことを全く顧みない人もいるだろうし、一生背負って生きる人もいる。


でも、所詮人の世は、この複雑に絡み合った人間社会では、

万人が手放しで「幸せ」になるということ自体が、

希望は別として、

目標として実行することは、

それこそが「不条理」なんじゃないだろうか?

と思ったのです。



今回のことだって…
すべて、「誰も犠牲にしないで済む方法」 なんてあるんでしょうか?、


「みんなが笑顔で万々歳」 

なんて方法は、そもそもあり得ないんじゃないだろうか?


それでも、なんとかしなければならない。

「決断」はしなければならない。

「何か」を切り捨ててでも、守らなければならないものがある・・・。


そして今度こそ、

間違った切り捨て方、間違った判断をしないで欲しい。


早くなんとかしないと、

刻一刻と決断が遅れるごとに、

救われる「半身」の生存率も 刻一刻と狭められ、最悪は全員が共倒れ・・・

そんな結末だけは避けたいものです。



その最悪の結果を生み出しそうな、この議論の「停滞」の原因はなんなのか?

それだけははっきりしていると思うのです。

それこそが、

「不幸せになる(不都合な)人がいるから、簡単にはやめられない」

という論理です。


しかし、

その「不幸せ」は、なぜか一方だけが常にクローズアップされ、

その反対に位置するところの「不幸せの実質量」はまったく加味されてませんよね?


過去と現在と、近い将来と未来にわたっての膨大な「不幸せ」を被るだろう人たちのことは

どこに考慮されているというのでしょう?


それって へんですよね?


すべての人が幸福になれる方法 なんて、

すべてが丸く収まるようないい方法 なんて、もともとないんです。

誰だって矛盾をかかえて、それでも選択しているのです。


そもそも、それ を作るときからして、「丸く収まった」わけではなかったのです。

違いますか?

すべての人が喜んで受け入れて「幸福」を感じたわけではなかったはすです。

それを忘れていませんか?


作っている間も、稼働して修理を続ける間も、ただ近くに住んでいるだけでも、

すでに「不幸せ」を被った人、いまだにそれで苦しんでいる人たちが大勢いたのです。

それを忘れていませんか? (というか、それはけっしてクローズアップされませんよね?)


作るとき、動かし続けるときには、そういう「不幸せ」を簡単に切り捨てておいて、

止める時だけ、

「すべて丸く収まらないと止められない」 というのはおかしな道理ですよね?


作るときには、「見切り発車」で実行に移してきたのに、

やめるときだけ、

「完璧な解決法」や「すべての賛同」がなければ「見切り発車」はできない・・・

っていうのは、おかしいですよね?



あれもこれも・・・

結局、原子力開発事業というのは、

そもそも、それ自体が、このように、根本的に理論破綻した産物だったんじゃないかと思います。

もともと、「机上の空論」を「現実」に持ち込んだ瞬間から、すべてが論理破綻していたんでは?

と思えてしかたありません。

それをごまかし、目眩まかすために、ものすごいお金が動いただけだったんじゃあ・・・ って。



・・・と、いけない、いけない!

なんでこんな話に・・・  (^_^;);;

全然関係ない萩尾望都作品までも、こんなところに引っ張り込んでしまった・・・



いえ、

でも、そうなんです。

素晴らしい作品とは、そういうことなんです。

それが日本の「文化」の象徴であり、神髄であり、プライドです。


マンガで人生を語ったり、真理を追究したり、哲学したりできるのは、日本だけです。

日本以外の「コミック」にこんな力があるか~~~??


石原都知事(まで)、「残酷の神」をポルノ扱いしないで~~~!! ウサギむかっむかっ 





 『残酷な神が支配する』  萩尾望都










萩尾望都原画展 in 福岡に行きた~い!! 

うっかりしている間に、すでに24日から、福岡での萩尾望都原画展が始まっています。

しっかり前売り券だけは買いました。  二人分。


行けるかどうかは娘次第です。

今もガンガン ショパンのエチュードを弾いております。 ピアノ ト音記号

ぜひ、この母のためにも頑張ってください!!


期限は 3月13日までです。 頼みます!!


さて、

すでに行った方の報告によりますと、

なんと!!

萩尾望都先生ご自身の音声ガイド なるものがあるそうです!! 目

500円で借りられるそうです。

解説は、17作品あり、そのうちの10作品くらいが先生のお声だそうです。


そ、そんな、

萩尾望都先生のあのおっとりとしたお声で、まったりと解説していただけるんですか~?

ああ・・・ どうしよう 汗  泣いちゃう・・・あせる


あの、「ポー」も? 「トーマ」も? そして、「残酷な神…」 も??


それはもう・・・行くしかないですよねえ?

ああ、生霊になってでも行きたい・・・  (T T;)


神様・・・どうかわたしを福岡に連れてってください。


( たのむぞ!!  娘よ!! )



※ ↓こちらで音声サンプルが製作中とのことです。 後日視聴できるかもです!

   カセットミュージアム   
http://www.ca-mus.co.jp/museum/exhibition.html



※ 福岡のチラシ  →  http://www.rkb.ne.jp/hagio/    ( きれいですラブラブ )



※ また、佐藤嗣麻子監督の映画「半神」も会場内で(?)上映されているそうです。


「イグアナの娘」


※ まだこの作品を読んだことのない方は、できればこれを読まないでください。

   ぜひ、この作品を読んでから、ここをお読みください。

   この作品は、まず先入観なしで読まれることをお薦めします。






これは萩尾望都の実体験をもとに描かれた話だということを、最近知りました。

最近どころか、

じつは、先日の原画展で知ったのですが・・・


誰もあんなこと描こうなんて思いつかない・・・。

題材としてはあったかもしれないけれど、ああいう表現で描こうなんて誰が考えつくだろう・・・

これを初めて読んだ時は、わたしはすでに結婚もしていい大人になっていたけれど、

子供時代から萩尾望都の世界を常に傍らに置いていたはずだけど・・・

これはさっぱり分からない・・・

「どうしてイグアナなの?」

たぶん、言いたいことは解かるけど、

「どうして イグアナじゃなきゃいけなかったの??」


その謎は解決されることのないまま、20年近い時が過ぎていったのでした。


20年間ずっと考えていたわけではありませんが、どっかに引っ掛かっていたのは確かです。

それが、

先日の萩尾望都原画展で、例の I さんから、「あれは作者の実体験で・・・」 と聞いて、

そのあと、友人と、お互いの「長年の謎」 解明について語り合ったとき、

多分、わたしひとりでは出てこなかったある考えが浮んだのです。

それは、第一段階では、友人との会話の中で、自分が口にした言葉で初めて気が付いたこと・・・

そして、第二段階では、これを書きながら、だんだん確信を強めていったこと、でした。


ということで、

わたしは、萩尾望都研究をしたわけでも何でもないんで、

これから話すことは、かなり独断と偏見に満ちております。

一人の思い出したような萩尾望都ファンの独白だと思って聞いといてください。




もし、これが、

たまたま興味がある社会問題として資料を集めて研究して描いたものだったなら、

ふつうの人間として母子の確執を描くのではないかと思うのです。

しかし、

これは作者自身の実体験であり

あまりにそのテーマが本人にとってリアルで、それこそ生々しすぎて、

それゆえ心象をイグアナに例えて描く手法を選んだのではないだろうか?
・・・と考えました。


でも、もうひとつ、理由があるような気がするのです。

それこそが、萩尾望都氏の人間性の本質なのかも・・・と思ってしまったわたしです。



母子の確執を描く、シュールな作品としては、わたしは山岸涼子も数々の傑作を残していると思う。

修羅の仮面を被っていたり、

騎士の重たい鎧をまとっていたり・・・と 「被り物」はいくつもあるが、

こういうまるで人間ではない奇妙な醜い姿形に変体してしまっているのは無かったのではないだろうか・・・


「仮面」 や、「鎧」 だったら、元は「人間」です。

その方が、人は理解しやすいはずです。

「仮面」や「鎧」を必要とする人間がいることを、大抵の人は理解できると思うのです。

そして、それは、

「仮面」を被らなければならなかった人間の弱さや哀しさを表現するものであり、

人の愚かさの裏の悲しみの深さ、人の業の深さを表現するものだったように思います。


でも、萩尾望都は、それすらよしとしなかった。

それをも欺瞞と言い放った・・・

そう思えるのです。


その発露が 「イグアナ」 だったと思うのです。


母と娘の一生平行線で解かり合えないと思っていたものが、

じつは自分と最も強い共通点だったなんて・・・

いったい誰が教えてくれるだろう。

いったい誰がそれを体現できただろう・・・。


その表現方法も斬新…というより奇異だけれど、

それこそが、萩尾望都が萩尾望都たるゆえん としか思えないのです。

ファンタジーもロマンスもサスペンスもホラーも、何を描かせても超一流だということは周知のことだけど、

まったく万人向けでないものを堂々と世に出せる、世に問うことのできる本物だという証なのだと思うのです。



テレビドラマ化され話題になったというけれど、残念ながらわたしはテレビはあまり見ていなくて

おぼろげな記憶しかないのですが、

一般に反響をもたらしたというのは、もしかして、たぶん、

作中に、ドラマならではの「種明かし」があったのだろうと推察します。


なぜなら、

こういう手法を選んだということは、

作者は最初から 「万人受け」 など考えても、期待してもいなかったと思うからです。

これは、「自分だけが、なぜ・・・」という疑問や、出口のない迷路に彷徨っている、

作者と類似の実体験をもつ者だけが、

「これは、もしかして自分のことではないだろうか・・・」

と気付いてくれることを、

むしろ、それだけを期待したのではないだろうかと思うのです。


いくら、誰かに諭されても、書物で勉強しても、

解からない人には一生解からないことがある。

自分が、「自分もイグアナだった」 ことを死ぬまで忘れていた母親のように・・・


そんな、自分の本質を解かろうとしない、気付こうとしない、

ましてや、自分を変えようなんて露ほどにも思わない『母親』 たちへの理解

なんてものを望んだのではないと思うのです。


作者はきっと、

自分が何をしても、どんなに手を尽くしても、

「変えられないものは変えられない」 ということを 誰よりも知っていたのではないでしょうか。


だからこれは、

そういう実体験がある、 

答えの無い疑問にいつも怯えながら、誰にも理解されない苦しみを無自覚に持つ者、または、

そういう他人に言えない孤独な苦しみを自覚している者だけが解かってくれればいいと、

そう思って描いたのではないか、と思うのです。


「一番理解し合えるはずだ」という家族に何の疑問もなく、この世になんの不条理も感じず、

真っすぐに育って生きてこられた「幸福な人」にも理解してもらおう なんてことは、

ましてや万人に理解してもらおう なんてことは、きっと、

さらさら考えていなかったと思うのです。


そもそも、「イグアナ」の苦しみは、

万人が、「家族は、親子こそは一番の自分の理解者で、一番解かり合える、愛し合える存在なのだ」と、

そう思い込まされていることから始まるのです。


そういうことこそ「幻想」なのだと、

「そう思い込まされてる社会」 に生きていることが心に歪みをもたらし 「イグアナ」を生むのだということを、

作者は誰よりも解かっていたのだと思います。


万人への理解を求めるための媚びをせず、

無粋な解説を一切入れず、

「わかる人には、わかるでしょう?」 という作家個人の最上の優しさが伝わってくるのです。


  「わかる人にしかわからない」 その不親切のどこが「優しさ」だって?


そう、

敢えて、万人に解かるような平易な表現を使わなかったことが、

それこそが、

長年、誰からも理解されず、自分でもなかなか気付くことができなかった苦悩や寂しさを

いきなり白日の下に晒すことなく

必要な人のところにだけそっと届くように、

「解かる人はいるのよ。」 と、

「解からない人はどうやっても解からないのよ。 それでいいじゃないの。」 と、

彼女の声を聞いた人だけが、ひっそりとその優しさと救いを享受できるような、

そんな存在だと思うのです。 

この作品は。


萩尾望都の力量、表現力、説得力からいけば、

万人に解かるように描くことだって可能だと思うのです。

やろうと思えば出来たと。

それが目的だったら、そうしただろうと。


でも、それは、

意識的にしろ、無意識にしろ、

敢えて、ぜったいしなかったろうと思うのです。

なぜなら、

彼女は実体験で知っているからです。


もし、これを万人に理解できるように描いてしまったら、

「もしも、こういう人がいたら、

それはこういう理由で、こういう傷を持ってて、こうこうこういう気持ちで、こういう苦しみの中にいて・・・

だから、可哀想でしょ。 理解してあげて、救ってあげなきゃいけないでしょう?」

・・・って、(もちろん、もっとクールにスマートに表現して、ですよ)

ぜ~んぶ作中で語ってしまったとしたら・・・?


今まで誰からも理解されず、人知れず傷ついてきた人を

いきなり、大衆の前に裸で放り出すようなものではないでしょうか?


要らぬ同情や、憐憫や、奇異の目で見られることになるのではないでしょうか?

それは、優しさなんかじゃない。

それこそが欺瞞、それこそが偽善です。

救いなんかじゃないと思うのです。


「誰かに気付いてほしい。」 

「誰かに救ってほしい。」

「この気持ちが何なのか、誰か教えてほしい。」


・・・でも、その「秘密」は、

誰かたったひとりの人にだけ理解されれば救われるのではありませんか?

万人に自分の傷をさらけ出して知られることを望んでいるのではないはずです。


こういう、「救われない」心の傷をもつ者は、

そう易々と自分の本心は語れないものです。

そう易々と本当の顔も、本当の言葉も見せない。

そうやって、傷を隠しているうちに、自分の本性すら見失ってしまって、

真逆な言動で違う「人間」を生きようとする。


あの 「残酷な神が支配する」 が完結までに10年の時を必要としたのが解かろうというものです。

あれをもし1~2年の連載で終わらせようとしたら、

ぜったいどこかに「嘘」が入ると思います。

あるいは、作者が意図するところでない「嘘」が入ってしまうと思います。

あの「トーマの心臓」とて、

「あと数回で終わらせてくれ。」という編集長とたたかって、

結局納得いくまで描かせてもらったので、

今でもわたしたちの心に永遠に生きているのですから、

まさか、そんなことはぜったいしないと思いますが。


じつは、わたしも最初この作品を読んだときは、まったく解かりませんでした。

何度読んでも、理解できない世界でした。

でも、気になって、引っ掛かって、ずっと心の片隅に置いてありました。

いつ、その解決の手がかりに出会えてもいいようにと、すこ~しだけその引き出しの隙間をあけて・・・。

そういう作品は他にもいっぱいあります。

「トーマ」しかり、「マリーン」 「温室」 「百億の昼・・・」 「銀の三角」 ・・・・


幸運なことに、親子の確執までは わたしは実体験では理解することはできなかった。

でも、大人になるまでに出会った数々の作品たちと、

家族間ではなかったけれど、人間関係の不条理もそれなりに経験して、

男女間の不条理も、子育て中の不条理もくたくたになるほど経験して、

わたしは少しずつジグゾーパズルのように答えを導いていきました。

それが正解かどうかは確かめようもありませんが、

それはいつしか自分だけの答えになっているのです。


わたしだけでなく、そういう人はたくさんいるのだと思います。

そうして、

説教や勉強で押し付けられたものでない自分の中で育てた答えが、

他人を理解する上で役立っているのではないでしょうか?

相手を慮る気持ちは、なにも「愛情」だけではないのです。

「隣人を愛せ」という説法よりも、

人の心の弱さや、歪み、悲しみ、苦しみを知っていることが、

それが、自分と他人との共通点だと知っていることが、

他人への思いやりにつながっていくのだと思うのです。


自分は正しいと思って憚らない人、自分だけが不幸だと思って憚らない人は、

自分も、他人も一生理解することなく、「鎧」や「鱗」を纏ったまま生きていくのでしょう。


先にも書きましたが、  ( 萩尾望都原画展 Ⅳ

この世には、「小説よりも奇なり」 のことがいっぱいころがっています。

自分が不幸だと思っているときは、他人の家の明かりが温かく、この上なく幸せに見えるけど、

その温かそうな明かりの下では、ほんとうは想像を絶するような不幸が起きているかもしれないのです。

自分だけが不幸せだと思っているうちは気付くことができないけれど、

自分と同じ淵に落ちている人間を見つけたとき、

そして、その人間もまた、まわりから理解されず孤独と戦い、もがいていることを知ったとき、

真っ暗だった部屋に「ドアノブ」を見つけることができるかもしれないのです。


そのドアを開けられるかどうかは、また違うプロセスが要るかもしれないけれど、

そこから出てさらに道筋を標す人間が必要かもしれないけれど、

「あなたはもうじゅうぶん苦しんだ。 もう、そこから出てもいいのよ。」

と、そう 声をかけたのがこの作品だと思うのです。


「いつか、解かり合えるときがくるわよ」  そういう欺瞞や偽善に満ちた世の中で、

「あきらめてはダメ。 歩み寄るのよ」    そんな<呪い>の中で もがき苦しむ「子供たち」にとって、

これは最後の救いの「声」なのではないか、と思うのです。


「たとえ親子でも、どうやったって解かり合えないものもあるのよ」 と。



自分しか知らない人、自分しか信じてない人、
自分が知らないことは一切信じられない人に、こんなことができるだろうか・・・?

もちろんできやしない。

でも、この世の中、じつはそういう人がたくさんいるのです。

それも本来、人を導き、人を諭す立場の人の中にもたくさんいるのです。

人間の姿をした、人間を理解しない人が・・・

それゆえ、
二重に裏切られ、傷つけられ、救いを失う子供たちがたくさんいるのです。


あの「残酷な神・・・」を読むと、
萩尾氏はそれを含めて全部解っているのだと・・・ほんとうに思います。



この萩尾氏が伸べた「救いの手」は、誰の目にも見える頑丈な「梯子」ではなかった。
あえて、そうしなかった。
ただ「一人」が気づいてくれればいい… というような、
細い透明な「蜘蛛の糸」 だったのではないでしょうか?



釈迦が垂らした蜘蛛の糸のように、
細い細い、ただ一筋の光のような、そんな、万人向けではないけれど、
これを読んだたった一人の「あなた」のために、
誰もやろうとしてこなかったことを、誰もやろうとしなかった方法で、


他の人には見えないように「こっそりと」、手を差し伸べたかったのではないでしょうか?

この「イグアナ」を通して。
そして、数々の作品を通して。


それを、
萩尾望都という人間の優しさだと、氏の目に見えぬ最上級の優しさだと、
そう思ってしまったわたしです。







予告とお願い

萩尾望都原画展へ行ってから、すっかり萩尾ワールドに憑りつかれてしまったわたし・・・


友人M と、4回目の記事のコメントの返事を書きながら電話で語り合ったあと、

勢い余って ついに「イグアナの娘」についての自説を書きなぐってしまいました。


書き始めはそこまで書くつもりはなかったのに、結局かなりの長文になってしまって、(いや、改行が多いだけよ)

おまけに、別段 研究者でも、資料を読み漁ったわけでもないのに、

(じつは、まだ原画展で買った「萩尾望都本」読んでません…あせる )

かなり独断で突っ込んだ見解を述べてます。


・・・ので、

できれば、次のエントリー 「イグアナの娘」を読む前に、

ぜひ、原作をお読みになることをお薦めします。 m(__)m


初めて萩尾作品を読むという方には、難解 不可解な話だと思いますが、

わかっても、わからなくても、

とりあえず、一度、いえ、できれば何度でも反芻して読んでみてください。 (50ページの単編です。)

これは何を意味しているのか、

なぜ、こんな設定を、手法をとったのか、

貴方なりに考えて、感じていただくことが大事だと思います。

先にわたしのエントリーを読んでしまうと、わたしの勝手な見解で先入観が生まれてしまうので、

この作品を味わう意味が、

わたしが思うところの作者の意図が死んでしまう可能性があると思うからです。


ぜひ、何の先入観もなく、この作品をお読みになることをおすすめします!!



たかが、漫画の一作品です。

そんな大仰な・・・

と思われるかもしれませんが、

わたしに限らず、萩尾望都作品によって若いうちから、目に見えない、言葉にならない

心のバイブルのような薫陶を受けてきた人たちにとっては、

今も、これからも必要な大事な聖地です。


今まで、うっかり忘れていたようなわたしでさえ、ちょっと原画に触れただけでこうですから・・・

ずっと、浸ってきた人にとっては、けっして大袈裟ではないと信じます。


といっても、けっして効力のあることではないので、

どうするかは貴方の自由です。


ただ、

そういうこだわりを大事にする人の気持ちを代弁させていただくと、

こういう精神世界を大事にすることは、

けっしてただのロマンチストやセンチメンタリストの戯言ではなく、

こういうことが、日本人の根底にあったから、こういう作品が生まれたのと同じように、

この日本の産業、経済、芸術、スポーツの世界的な発展にも深く関与したと思うのです。


スポーツ?

って思われるかもしれませんが、

突出したアスリートたちは、大抵、何かしら、心にこういう大切な何かを持っています。

漫画でも、音楽でも、写真でも、一遍の詩でも、

大切な何かを持っているということは、自分の世界を持っているということでブレがないのです。

絶対普遍な自分の価値基準みたいなものを持っている人は、迷ったり、くじけたりしたときも、

幸福だった自分を思い出す「手がかり」を持っている。

失敗したり、後悔したときでも、「共感者」や「道標」になってくれるものがあるから、

自分の基礎に立ち返ってやり直しができる。

そういう役割があると思います。


大昔から、わたしたち日本人は「そういうもの」を当然のように持ち、大切にしてきました。

その証のひとつが、

世界最古の「万葉集」や、「源氏物語」や「枕草子」などの存在だと思います。

これらが、一部の王侯貴族だけの特権的な「所有物」ではなく、広く庶民にも浸透していたことは、

日本以外の世界にはなかったことです。

そういう土壌がこの日本にあったからこその、今日の「漫画文化」であり、

そのなかの傑出した「漫画芸術」だと思います。



話がこれ以上飛ばないように戻します。


萩尾望都作品は、けっして奇をてらったり、ましてや受けを狙ったりするものではありません。

こういう繊細な、けっして人が言葉で語らない部分の心の機微を、

天才的な作画と話術という独自の手法で描いたものです。


今まで、まだ萩尾望都作品に触れたことのない人、読んだけど記憶が薄れてしまった人は、

ぜひ、この機会にもう一度、この稀有な作家の作品を読んでみてください。

 

今の漫画界においての最高の名誉は手塚治虫文化賞でしょう。( …のような気がする) 

( 1997年 第一回手塚治虫文化賞・優秀賞は、萩尾望都 「残酷な神が支配する」が連載中に受賞。)  

(ただし…最近の選考基準には はなはだ疑問はあるが…)

しかし、その手塚治虫でさえ、生前に勲章は戴いていません。

ましてや、文化勲章は戴いていません。

もし、この世に、漫画界において、今いちばん勲章に近い存在といったら、

やはり、この萩尾望都ではないかと思います。

それは、売り上げ部数や知名度とはまったく関係ないところでの価値です。

できれば、生きているうちに、現実になって欲しいと思います。


世界ですら認めている芸術価値を 日本人が見過ごすなんてことのないようにしてほしいと思います。



もう一回言います!


読む前に読んでね!!     ウサギ  にゃー  ウサギ  にゃー






※ 最近、水木しげるが受賞たのは、「文化功労者」 (1991年は紫綬褒章)であって、

   「文化勲章」 とは異なるものです。



リンク
このブログをリンクに追加する
最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
検索フォーム
プロフィール

うさんぽ

Author:うさんぽ
アメブロにいた「うさんぽの小径」のうさんぽです。
普通の子持ちの主婦です。
うさぎブログのはずだったのに、気がついたらこんな重いブログになっていました…
思いっきり、主婦目線、母親目線、オバサン目線でいろんな情報に感想を書いています。

記事を引っ越してきたので改行が狂ったりリンクが開けないなど見苦しいところがあり申し訳ありません。

QRコード
QR
RSSリンクの表示