ひだまり    今は古事記に夢中! 宮崎駿監督「風立ちぬ」 ③ この作品が最後に われわれ現代日本人に伝えたかったもの・・・
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宮崎駿監督「風立ちぬ」 ③ この作品が最後に われわれ現代日本人に伝えたかったもの・・・

※宮崎監督の引退宣言を受けて、タイトルを少し変更しました。 m(__)m

※ どうぞ、 を先にお読みください。





宮崎駿監督作品「風立ちぬ」を見てきました。
とってもすばらしい映画でした!
ジブリ映画の中でも特筆すべき、わたしの中では「ナウシカ」以来の感動でした。
これをちゃんと見ないうちに宮崎駿批判することは許されないと思いました。

あれを単なる「軍国主義映画」だとか、
ただの「戦争賛美」だとか、または「戦争批判だ」とか言ってること自体
恥ずべきことだと思いました。
そうとしか「読み取れない」としたら、それは悲しいことだと思います。
それでは、「言葉どおり」にしか読み取れない、先入観からしか解釈できない、
そんな左翼新聞記者と同じレベルだと思います。

あの映画から、どれほど爽やかな感動が感じられるか。
あの映画から、どれほど深い日本への愛情が感じられるか。

それは、風景の美しさとか、病苦を乗り越えた夫婦愛・・・とかなんかではなく!
この作品全体を包み込み、溢れるように滲み出る日本への愛情、
日本人精神への敬愛、そういったものが読み取れなくて 何が日本人だ!
・・・と言いたい。  
見てからものを言え、と。

まあ、見ても解らん者は、要するに「日本を理解したくない者」または、
「日本の素晴らしさを認めたくない者」だと言っているようなもの。
どの口が、どの頭が、
あれを「戦争賛美」だと、「軍国主義批判」だと、「反日作家」だと言うのか?

あれは、日本魂がなければ描けないものです。
宮崎駿がどれだけ日本を愛しているかが解ります。

「左翼」って一言でいうけど、左翼ってのは、
左翼思想の害悪っていうにはつまり、
「日本古来の伝統的なものや日本人独特の価値観を壊して全く新しい社会をつくろう!」
という夢と希望を持ってるやつらのことでしょ。

でも、そこまでの反日的な破壊的な考えを持っていない、
ほとんど「誤解」と「思い込み」によって「日本の戦争責任と自虐史観」をもっている
普通の日本人もたくさんいるのです。
それはある意味仕方のないことです。
だって、戦後の日本人は、
とくに、「多感な時期」に終戦直後を経験して育った人たちは、
今のわたしたちには想像もつかない「ものすごい価値観の変革期」を経験しているわけで、
今みたいな「さりげなさ」じゃない、ものすごい強烈なプロパガンダ教育をモロ浴びしてきた人たちだから、
ある意味、「そう思ってしまうことが普通」 な世代なんだと、最近思い至りました。

そういう目で、あのおかしな宮崎発言を聞くと、なんら不思議じゃありません。
だって、わたしの親の世代は、みんな「普通に」あんなもんです。
それだけのことです。 
だから、作品外の発言は無視していい、とわたしは思います。
その当時の日本人としてある意味、標準的な考え方なのですから。
わたしの父親もそうです。
わたしだって、つい数年前はいわゆる「左翼脳」に汚染されてたんですから。
それが「普通」だと思って・・・

そんなもんです。 あの「発言」の価値なんて。

でも、
どれだけ[日本]を守りたかったか・・・その「方法論」はともかくとして、
その「思い」だけは嘘ではないと、
いや、嘘どころか、メチャメチャ強い人だと思いました。

そして、それを表現し、伝えたい気持ちが誰よりも強く、誰よりも表現力があり、
誰よりも影響力がある。

だから、その力を「恐れる」人がいるのは必然です。
そういう人物が「左翼認定」や「在日認定」される現象はこのところ顕著です。
わたしも受けました。(^_^;)
そういう現象だと思います。
あれは。

ともかく、
①、②でも言ったように、
この作品は「日本人の魂」「日本人の誇り」そのものだと思いました。

こんな作品を描ける人間のどこが反日でしょう?
どこが左翼思想でしょう?
ありえません。 とわたしは思います。

わたしたち日本人なら、あうん の呼吸で解るものがあると思います。
が、外国人、とくに、
こういう日本的な精神を「認めたくない」国の方々からしたら、
これはとても「解り難い」ものなのかもしれません。

結論から言うと、
ああいう、「神風特攻隊と『永遠の0』に出てきた新聞記者のような思考の人間とか、
昨今の「文盲」マスコミ記者のような思考の人間には、
到底読み取ることはできないのかもしれません。

だって、「言葉どおり」にしか解釈できないから。
「固定観念」以外はシャットアウトか、
「都合のいい湾曲解釈で現実逃避して乗り切れ」・・・だから。

それでは、この作品世界の「正義の二面性と矛盾」は、
日本人感覚で理解しろと言われても到底無理な話でしょう。


たしかに、
飛行機作りは、この時代、「戦闘機」=「殺人兵器」作りであったし、
望むと望まざるとに関わらず、「戦争加担(殺人加担)してしまうことになる」のは事実。

でも、それがどうした?

たしかに、
彼の発明したうつくし過ぎる「ゼロ戦」は、敵味方なく、大勢の人間を殺した。
(戦闘員だけですが)

でも、それがどうした?

たしかに、
当時、日本には資源も、技術も、お金もなかった。

でも、それがどうした?

日本には、こんなにすばらしい資源があったではないか?

日本には、こんなにすばらしい財産があったではないか?

それがあったから、
日本は、こんなにも豊かに成長したのではないのか?

それがあったから、
日本は、ここまで国家も民族の誇りも失わずにきたのではないのか?


今、われわれは忘れてしまっているだけで、
それは、たしかにあったのだ。

今、われわれは忘れてしまっているだけで、
それは、たしかに、日本だけの貴重な「資源」だったのだ。


あの時代、日本は貧しかった。
資源も技術もなかった。

けれど、日本には、
世界中にはない、日本だけが持っている貴重な資源がありました。

それは、
石油でも、大量生産技術でも、
昨今発見されたメタンハイドレートなどの海洋資源でもない。

それは②でも書いたけど、
日本人の、日本民族特有の「人の誠実さ」なのです。


その日本人特有の「誠実さ」が、
「勤勉さ」を生み、「忍耐力」を生み、
「「想像力(思い遣り)」を生み、
「創造力(開発力)」を生み、
「優しさ」を生み、「厳しさ」を生み、
「団結力」を生み、「公徳心」を生み、
・・・それらが基礎となってはじめて、今の日本の経済力、科学力、文化発信力があるのです。

そしてなにより、
おそらく、近代国家では日本が唯一といえる、
人と人とが無償で信じあえる、平和で幸福な社会があるのです。



この映画は、一人の「天才」を讃えるためではなく、
まして、彼の作品の「戦闘機」を讃えるためでもなく、
それらが代表する日本の「最先端技術」を讃えるためでもなく、
まして、
戦争を賛美するのでもなく、
逆に、戦争を(戦闘を)ただ否定するものでもない。


日本人には、日本人にしかできないことがあり、
日本人にしか持てないものがあり、

日本にしか吹かない風がある・・・


そう、風は、日本にも、ドイツにも、アメリカにも、
世界中に吹いている。

しかし、
この日本に吹く風は、
日本にしかないもの。日本だけのもの。

そして、この風を捕まえられるのも日本精神を持った者だけ・・・
そんな風に思います。


風はどこにでも吹く。
いろんな人がその風に乗って彼に夢を語る。

しかし、
日本に吹く風で背中を押された少年が描く夢は、
日本以外の風に背中を押されて描く夢とは違う・・・


いろんな人が少年に語りかける。

夢の功罪を見せる。

夢の残骸を見せる・・・夢の屍という現実を。


しかし、
少年の夢が作ったのは、ほんとうにただの殺人機械だったのか?

帰ってこなかった機体は、ただ血を吸った怨念の塊と化したのか?


結果論だけがすべてなのか?

戦争は、「戦闘シーン」だけが真実なのか?

殺した数、死んだ人間の数だけが「戦争を測る物差し」なのか?



ならば、なぜ、菜穂子は、
死に急ぐと分かっていながら、山を下り、二郎といっしょに暮したのか?

なぜ、それを二郎は、黒川夫妻は、菜穂子の親は許したのか?


「生きる」といことは、
生きているということは、そういうことなのではないか?

ただ、脈があって、呼吸しているだけが生きているのではない。

生きているということは、
輝いていること、心動いていること、生きた証しを残すこと・・・

それが「死に急ぐ」結果になろうとも、
たとえ一瞬の瞬きで終わろうとも、
それを選ぶこともまた、「生きる選択」なのではないだろうか?


自ら志願し散っていった英霊たちも、菜穂子と同じではないだろうか?

「一番美しいときだけ見てもらいたかった」
そんな菜穂子の「選択」と同じではないだろうか?

「死に急ぐ」という「生きる選択」をしたという意味で。

結果として「死に急ぐ」ことになったとしても、
それでも今あるこの命を「生かす」ことを選んだという意味で。

かれらは、同じ選択をしたのではないでしょうか?


今なら、結核など恐れるに足らない。
当時のサナトリウムの寂しさも、辛さも、
結核患者の寂寥と憂鬱を現代の誰が想像できるだろう?

それと同じく、
戦場で、最前線で、燃料も物資も欠乏した現実の中で、
自分が潔く死に急ぐことでしか守れないものを彼らが見たことを、
その道を自ら選びとったことを、
現代の誰がそんな心境を、その覚悟を、
そのとき抱いた切実な望みを、どうしてわたしたちに想像できようか?

どうして、わたしたちに否定できようか?


この作品には、
二郎の設計した零戦に搭乗した特攻隊員たちの姿は出てこない。
そんな生々しいシーンも、声も、言葉も出てこない。

けれど、
この「菜穂子の選択」を通して、
それを受け入れ、それを支えた二郎や、黒川夫妻たちの決断を通して、
そして、最期の潔い姿を通して、宮崎は伝えたかったのではないだろうか?

彼女の、清らかでうつくしい意志の強さを描くことで、
あの零戦で散っていった英霊たちの「遺志」をも伝えたかったのではないだろうか?


「死んだこと」だけで測るな。
「命のみじかさ」だけで幸福を測るな、と。

彼らが、どう死んで行ったか 「どう生きたか」を見よ と。











追記;

にしても、この作品のすごいところは、
ただ「ゼロ戦」の生みの親である堀越二郎物語・・・ではなく、
戦闘シーンも、特攻隊の姿も出さずに、
彼らの「死」を、
本来の日本人の価値観、およそ日本人にしか解せない日本人の死生観によって、
それを理解するために「堀辰夫のメッセージ」を組み込んだところです。
 (いや勝手な解釈だってば!)

それは、既成の映画のようなメロドラマ的な「恋愛悲劇」ではなく、
プロパガンダ的「自己犠牲の悲劇」でもなく、

日本人特有の「生き方の選択」、「死に方の選択」というもの、
「日本人の死生観」というもの・・・そういうものを、

「富国強兵」に邁進する時代の、
人の平穏な幸福からは矛盾する理不尽な価値観の二重構造や、
精神の二重構造を強いられた時代を生き抜いた主人公を通して訴えてきた
ということです。

「死に急ぐ」こともまた「生き方」である と。
「死に方」を選ぶのも、また、「生き方」である と。
「生きる」
ということは、長さや量だけでは語れない。
「何かを守るため」に「死」を選ぶことも、「長く生きることを拒む」ことだってある。

それを、勝手に自分の貧しい想像力だけで、「悲劇」だと括るな、 と。
それを勝手に、自分の貧しい見識だけで「犠牲」だと憐れむな、 と。

わたしには、そう聞こえました。

左翼が叫ぶ「人権」という印籠に守られた無尽蔵な「自由」や「権利」だけが、
人の幸福や充足感を叶えるとは限らない。
人の幸福の求め方、生き方の選択を示すベクトルは、
「戦後の価値観」とはすでに違う方向に動き始めているのではないか?
それに気付かなければないけないのではないか?

もはや、今の日本は、これからの世界は、
「戦後の価値観」だけでは生きられないのではないか・・・

「終戦直後の正論」(近現代的な西洋的な価値観)だけでは、もう、人の幸福は満たされないのではないか?

解り易くいえば、
楽をすることや得をすること、効率的なことや合理的なことだけが幸福感を満たすのではない
・・・という、そういうものを、
今の若者たちに気づいて欲しかったのではないか・・・と思うのです。

最終的に、人は、
権利や自由が満たされることだけでは、「生きた」幸福感、満足感は満たされない動物なのだ
ということに





※参考記事
「命をかけて愛する国の為に戦った彼らを誰が馬鹿に出来るというのだろうか?」  
~ 神風特攻隊についての海外の反応 と 百田尚樹 『永遠の0』


現代日本人は、戦後左翼マスコミによる「曲解」論理戦法によって、
日本を、日本人を大きく「誤解」してきたと思います。


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