ひだまり    今は古事記に夢中! 外国人はどのように日本が見えていたのか? ① 外国人から見た日本の姿 Ⅱ  
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アメブロから引っ越してきた過去記事の再公開と、                       もっと日本を知るために「竹田研究会」の紹介を主にしていきます。

外国人はどのように日本が見えていたのか? ① 外国人から見た日本の姿 Ⅱ  


「外国人はどのように日本が見えていたのか? ① 
外国人から見た日本の姿 」
  の続きです。

どうぞ  からお読みください。


今、われわれ日本人が知らない ほんとうの日本
われわれ日本人が忘れかけている 本来の日本人像は、
過去の外国人による「感嘆と賞賛の記録」から垣間見ることができる。

わたしたちは、それをすっかり忘れていただけ。
いえ、あえて「教えられていなかった」だけなのです。

でも大丈夫!!

わたしたちは、それを思い出せばいいのです。
「記録」を紐解けばいいのです。

それは事実なのだから。

それは何人もの有識者が、幾重にも、異口同音に証言していることなのだから。

そして、それらの日本人としての記憶は、確かに、
わたしたち日本人のDNAの中にしっかりと刻み込まれているのですから。

主に、 当時の他の国々やどの先進国と比べても、
日本人がいかに 差別のない真の平等意識、高い公共意識(公徳心)をもっていたか
を窺い知ることができる「証言」の数々、
また、それが、諸外国とは違い、特別な地位にある人たちだけでなく、
西洋人の言うところの「下々の 庶民までもが高貴な意識を持っていた」 ということが、どれだけ外国人
にとっては驚異であり、感動的であったかが分かる「記録」、
そして、その思いもよらぬ日本国民の見識と分別と誇り高さによって、日本がいかに対外的に真摯で
高潔な行動をしてきたかがわかる証言をいくつか集めてみました。


どの言葉をとっても、
最近、「経済大国」「先進国」デビューを果たしたばかりのお隣りの国の方々に
聞かせてあげたい言葉ばかりです・・・


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ぼやきぽっくりさん
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid387.html
 より抜粋転載~ (順不同)



■オットー・カロン
=ドイツ人。ボン大学教授

「天皇の真実」(河内正臣)より
1950年(昭和25年)のカロンの言葉

ローマ大帝国も、ナポレオンの国でさえも、一度戦いに負ければ亡びている。
私の国のカイゼル陛下にしても、また生前中は神の如く慕われていたヒットラーも、
イタリアのムッソリーニも、戦いに負けたらすべてそのまま残ることはできない。
殺されるか、外国に逃げて淋しく死んでいる。
だから
日本の天皇も外国に亡命すると思っていた。
しかし、そんなことは聞かない。だからすでにこの世におられないと思っていた。

ところが最近、日本から来た記録映画を見て驚いた。
天皇が敗戦で大混乱の焼け跡を巡っておいでになる姿である。
しかも、二年もの長い間、北の端から、南の端まで、焼き払われた廃墟を巡って、国民を慰めておられる。
陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないのに、無防備のままで巡っておられる。

平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、厳重な守りがなされている。
それでも暗殺される王様や大統領がある。
それなのに、
一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇が
日本の北から南まで、焼き払われた廃墟を巡る。国民を慰める。
何という命知らずの大胆なやり方であろうか。いつどこで殺されるか。
こう思って映画を見ていた。

しかし驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って天皇を慰めている。
こんなに美しい国の元首と国民の心からの親しみ、心と心の結び、これはどこにも見られないことである。

われわれは改めて、日本を見直し、日本人を尊敬しなければならないと思っている。


(引用者注:昭和天皇の御巡幸は昭和21年から29年まで続き、沖縄をのぞく、全都道府県をまわられた。
お立ち寄り箇所は1411カ所に及んだ)





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■ハーバート・G・ポンティング
=イギリス人。1910年(明治43年)にスコット大佐の第二次南極探検隊に加わり記録写真を撮った
写真家。1901年(明治34年)~1902年(明治35年)来日。日露戦争にも従軍。
「英国人写真家の見た明治日本」より

プラットホームに立っていると、そこにロシア軍の捕虜を満載した列車が到着した。
乗っていた捕虜の全員が、戦争から開放された喜びで大声で叫んだり、歌を歌ったりしていた。
・・・反対の方向から別の列車が入って来た。
それは日本の兵士を満載した列車で、兵士達は前線に行く喜びで同じように歌を歌っていた。

 ロシア兵と日本兵は、お互いの姿を見るや否や、
どの窓からも五、六人が頭を突き出して、皆で歓呼の声を上げた。
ロシア兵も日本兵と同じように懸命に万歳を叫んだ。
列車が止まると日本兵は列車から飛び出して、不運?な捕虜のところへ駆け寄り、
煙草や、持っていたあらゆる食物を惜しみなく分かち与えた。
一方ロシア兵は親切な敵兵の手を固く握り締め、その頬にキスしようとする者さえいた。

私が今日まで目撃した中でも、最も人間味溢れた感動的な場面であった

(中略)
松山で、ロシア兵(捕虜)たちは優しい日本の看護婦に限りない賞賛を捧げた。
寝たきりの患者が可愛らしい守護天使の動作の一つ一つを目で追うその様子は、
明瞭で単純な事実を物語っていた。

何人かの勇士が、病床を離れるまでに、
彼を倒した弾丸よりもずっと深く、恋の矢が彼の胸に突き刺さっていたのである。

ロシア兵が先頃の戦争で経験したように、
過去のすべての歴史において、敵と戦った兵士がこれほど親切で寛大な敵に巡り合ったことは
一度もなかったであろう。
それと同時に、
どこの国の婦人でも、
日本の婦人ほど気高く優しい役割を演じたことはなかったのではあるまいか。




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strong>■ファン・オーフルメール・フィッセル
=オランダ人。1820年(文政3年)~1829年(文政12年)、長崎・出島のオランダ商館に勤務。
ヤン・コック・ブロンホフ、フランツ・フォン・シーボルトの二人に仕え、江戸参府にも随行。
「日本風俗備考・1」より

日本人は完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も享受していないと
普通想像されている。ところが私は彼ら日本人と交際してみて、まったく反対の現象を経験した。
専制主義はこの国では、ただ名目だけであって実際には存在しない


(中略)
自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である。
奴隷制度という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも報酬なしには行われない。
勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級のものもほぼ満足している。


(中略)
日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない。また上級者と下級者との間の関係は丁寧で
温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたっていることを知ることができよう。



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■蔡焜燦=台湾人。実業家。少年兵募集に応募し1945年(昭和20年)1月、
少年航空兵として陸軍航空学校に入校。司馬遼太郎「台湾紀行」で“老台北”として登場。
2000年11月30日付産経新聞「産経抄」(石井英夫)より

 きのう小欄にJRの運賃誤表示の問題を書いた。社会のタガがはずれ、モラル連鎖崩壊の“終着駅”
はないのかと嘆いたところ、朝、台湾人・蔡焜燦(さいこんさん)さんからわが家に電話がかかってきた。

「いま東京のホテルで産経抄読みました。モラルの崩壊を止める“終着駅”ありましたよ。
名古屋駅です。南口で駅員さんに助けられました。うれしかったので電話してしまいました」。

二十六日のことだという。蔡さん夫妻は上りの新幹線に乗るつもりだった。

スーツケースを数個持っていたので赤帽を探したが、勝手がわからない。ようやく詰め所を見つけたが
人がおらず、列車の時間は迫ってくる。すると制服の駅員がかけ寄り、重いスーツケースを両手にもって
階段をあがってくれた。
礼をいうと、「いえ、教育が悪くご迷惑をかけてすみませんでした」と謝ったという。
急いで名前を聞くと改札係員のOさんである。
「ただそれだけのことでしたが、日本人の親切がよくわかりました。
まもなく台湾に帰りますが、鉄道のモラルいまだ滅びず、です」

蔡さんは司馬遼太郎氏の『台湾紀行』に登場する“老台北”である。
先日『台湾人と日本精神(リップンチェンシン)』(小学館文庫)という本を書いて「日本人よ胸を張りなさい」
と直言した。「自国の歴史を正当に評価し、自信と誇りをもって堂々と羽ばたいてほしい」と。


蔡さんは「台湾に“親日家”はたくさんいますが、私は“愛日家”です」という。
だが決して“媚(び)日家”ではなく、ずけずけ日本の批判もするし、日本人に注文も出す。
その厳しい愛日家は電話口でうれしそうに名古屋駅をほめた。こちらもうれしくなった。



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■廬千恵(ロー・チェンフィ)
=台湾人。児童文学者。1955年、国際基督教大留学のため来日。
夫とともに台湾独立運動にかかわり、92年まで帰台できなかった。

産経新聞2007年6月19日付
【「話の肖像画」セピアに光る ふたつの故郷(3)廬千恵さん】より

廬千恵
「日本では最近、不平等が広がっている、二極化が進んでいるといわれています。
中国や韓国からはバッシングを受けることも多いですね。
しかし、この半世紀にわたって民主的で平等な国であり続けた。
台湾もまた、民主化されて平等になりました。

台湾の人々は、アジアでは日本と台湾だけが平等な国だと思っています。
だから、自信を持ってほしいです」


--台湾には、日本に親しみを感じてくれる人が多いと聞きます

廬千恵
「勤勉で誠実な日本人の精神が好きだと思う台湾人が多いのではないでしょうか。
確かに統治時代には威張っていた日本人も多かったが、台湾人の側に立ってくれた人も多くいました。
戦後になって日本の統治時代を懐かしみ、「リップンチェンシン(日本精神)」という言葉ができたくらい
なんです」



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■エドワード・シルベスタ・モース
=アメリカ人。明治10年代に計3回日本に滞在。東京大学で生物学を講じた。大森貝塚を発見
「日本その日その日1」より

 世界中で、両親を敬愛し老年者を尊敬すること、日本の子供に如(し)くものはない。


「日本その日その日2」より

 日本人は確かに児童問題を解決している。
日本の子供ほど行儀がよくて親切な子供はいない。
また、日本人の母親ほど辛抱強く愛情に富み、子供につくす母親はいない。




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■氏名不詳(インド 地下鉄公団総裁)

「とてつもない日本」(麻生太郎)前書きより

 平成十七(二〇〇五)年の暮れ、外務大臣としてインドを訪問する機会があった。
首都ニューデリーに滞在中、できたばかりの地下鉄を視察したのだが、
この時インドの方々からうかがった話が今でも忘れられない。

この地下鉄視察が日程に組み込まれたのは、日本の政府開発援助(ODA)を使って建設されたもの
だからであった。
私たちが訪ねた駅には日本とインドの大きな国旗が掲げられており、日本の援助で作られたということ
が大きな字で書いてあった。
改札口にも大きな円グラフが表示され、「建設費の約七十パーセントが日本の援助である」と分かるように、
青で色分けしてあった。

その配慮に感激し、私は地下鉄公団の総裁に御礼の言葉を述べた。

すると、逆にこんなふうな話をしながら、改めて感謝されたのである。

――自分は技術屋のトップだが、最初の現場説明の際、集合時間の八時少し前に行ったところ、
日本から派遣された技術者はすでに全員作業服を着て並んでいた。
我々インドの技術者は、全員揃うのにそれから十分以上かかった。
日本の技術者は誰一人文句も言わず、きちんと立っていた。

自分が全員揃ったと報告すると
「八時集合ということは八時から作業ができるようにするのが当たり前だ」といわれた。
悔しいので翌日七時四十五分に行ったら、日本人はもう全員揃っていた。
以後このプロジェクトが終わるまで、日本人が常に言っていたのが「納期」という言葉だった。
決められた工程通り終えられるよう、一日も遅れてはならないと徹底的に説明された。

いつのまにか我々も「ノーキ」という言葉を使うようになった。
これだけ大きなプロジェクトが予定より二か月半も早く完成した。
もちろん、そんなことはインドで初めてのことだ。
翌日からは、今度は運行担当の人がやってきた。彼らが手にしていたのはストップウォッチ。
これで地下鉄を時間通りに運行するよう言われた。
秒単位まで意識して運行するために、徹底して毎日訓練を受けた。
その結果、数時間遅れも日常茶飯事であるインドの公共交通機関の中で、
地下鉄だけが数分の誤差で正確に運行されている。これは凄いことだ。

我々がこのプロジェクトを通じて日本から得たものは、資金援助や技術援助だけではない。
むしろ最も影響を受けたのは、働くことについての価値観、労働の美徳だ。
労働に関する自分たちの価値観が根底から覆された。
日本の文化そのものが最大のプレゼントだった。
今インドではこの地下鉄を「ベスト・アンバサダー(最高の大使)」と呼んでいる――。


私はこの話にいたく感銘を受けた。

地下鉄建設に携わった
日本人技術者たちの仕事ぶりそのものが、優れた外交官の役割を果たしたのである。

彼らはなにも、よそ行きのやり方をやって見せたわけではない。
いつものように、日本で普通に行なっているスタイルで仕事をしたに過ぎない。
しかしそれが、インドの人々には「価値観が覆るほどの衝撃」だったのだ。




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ここまでは、戦前や、そのもっと前、開国当時やそれ以前のものまで含んでいたのに対して、
最近の日本(戦後の日本政府)の姿勢に対して、のやや辛辣な声を並べてみました。
しかし、その『批判的な声』は、
昨今耳にタコのお隣の国のような根拠もない一方的な非難や謂れのない蔑みではありません。

特筆すべきは、感じ取っていただきたいのは、
過去の「素晴らしい日本」を知る外国人たちの、
今の「情けない日本」に対する厳しい視線、「ガッカリ」感が伝わってくる厳しい進言、苦言、
そしてその声が、
真剣に、心から、日本を心配し、日本人に成り代わって危機感すら感じて
「日本よ、目を覚ませ」と、多くの方々が叱咤・激励している記録です。




■サンパス将軍
=インドネシア人。元復員軍人省長官。東欧大使を歴任。
「祖国と青年」1994年2月号
『アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論』(中島慎三郎)より

 平成3年、村山首相がASEAN諸国を謝罪して回った時、
インドネシアの元復員軍人省長官で東欧大使を歴任したサンバス将軍は
「日本の戦争目的は 植民地主義の打倒であった。
その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ(課題が)残っている。
そんな時に行った村山演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。
村山さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、
A・A(アジア・アフリカ)の悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。
かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を
応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である
となげいていた。




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■アラムシャ陸軍中将
=インドネシア人。インドネシア大統領特使として1993年(平成5年)7月、来日。

「祖国と青年」1994年2月号
『アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論』(中島慎三郎)より

平成5年7月、インドネシアのアラムシャ陸軍中将は大統領特使として来日しました。
その時福田元首相や塩川自治大臣(当時)などと会見し、大東亜戦争について
「大東亜戦争が長引いたばかりに労務問題などで、ご迷惑おかけしました。」
と述べると
「とんでもない。むしろ大東亜戦争を途中でやめたことが残念であったと思ってる。
あと5年はやるべきであった。これは私だけの意見ではない。
アフリカに行けば、みんなから聞く意見だ。中東に行けばみんなから聞く意見だ。」

「どういうことですか?」
「なぜアフリカがあんな状態なのか。
我々と同じく40数年前に独立すべきであったがそうできなかったからだ。
あそこ はオランダ人とイギリス人とユダヤ人が握っているから、どうしようもない。
もし日本があと5年大東亜戦争を続けていたならば恐らく中東まで進出していただろうから、
中東諸国ももっと早く独立できたであろうし、日本軍の大変な勢いがアフリカにも伝わって、
アフリカ諸国もインドネシアのようにもっと早く独立で きただろう。
そうすれば、南アフリカも現在のように苦しまずに済んだはずなのだ」

とアラムシャ陸軍中将は語りました。


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■N・ヤルマン
=トルコ人。大学教授。

「中央公論」1998年5月号
「アジアの知識人は日本をどう見る」より

アジアにおける支配の歴史というマイナスの面があるため、日本人は沈黙しがちです。
しかしもう話すときがきた。
南アジア諸国は、日本のおかげで現在自由があることを認識しなければならない。
そうでなかったら今でもフランスやオランダやイギリスに支配されている。



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■W・リム
=シンガポール人。大学教授。

「中央公論」1998年5月号
「アジアの知識人は日本をどう見る」より

日本は、西洋的なやり方でなく、独自のやり方で近代化を成し遂げた国であることを認識すべきです。
だがアジア諸国はこのことを認識していない。
日本がそれについて話をしないからです。



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■ノーマン・メイラー
=アメリカ人、作家。

「プレイボーイ」日本版1999年10月号より
中国系アメリカ人作家アイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京」がベストセラーになった理由について

 アメリカ人にはヒロシマに関して深い罪の意識がある。
だから、日本人が1937年に南京で中国人にひどいことをしたと耳にすると、ほっと安堵するのだ

それにしても、これまで南京虐殺なんて聞いたこともなかった。
少なくともこの50年間は。それがいま突然話題になった。


(中略)
まあ、日本に対する敵意というのは確かにある。
いや、多くのアメリカ人は反日的なものを見たいのかもしれない。
次の世代はアジアが支配するのではないかという恐怖心が隠されているからだ。


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子供たちにぜひ聞いてほしい 日本の話


★「海賊と呼ばれた男」のモデル 出光佐三が亡くなったとき、昭和天皇が初めて
 一般人に向けて歌をお詠みになった


大日本帝国が世界で初めて提案した『人種差別撤廃案』

★左翼教育はなぜ これを日本の子供たちに教えようとしないのか?

★日本人に謝りたい  ~ あるユダヤ長老の懺悔(ざんげ) ~  ①

★「立派な天皇」は国民の鑑である ① 


★青山繁晴氏が 在米中韓人に虐められている日本人の子供たちに語ったこと・・・

★ねずさん・小名木善行先生の他とは違う 『 従軍慰安婦・南京大虐殺の嘘を暴く話 』















原発をやめられない本当の理由 ② もしも 日本に原発がなかったら・・・


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