ひだまり    今は古事記に夢中! 再 楊素秋 「日本人はとても素敵だった」 2

アメブロから引っ越してきた過去記事の再公開と、                       もっと日本を知るために「竹田研究会」の紹介を主にしていきます。

再 楊素秋 「日本人はとても素敵だった」 2

※これは、2011年10月に出した記事を再投稿したものです。



楊素秋 (ヨウソシュウ)さんという方が書いた「日本人はとても素敵だった」という中から、

これは以前書いた 再 楊素秋 『日本人はとても素敵だった』  の続編 です。


以前は「前文」だけを紹介しましたが、こちらの章の方が、

両国間の人たちにぜひ知っていただきたい内容でしたので、改めて紹介させていただきます。


第二章 日本統治時代

【古き良き日本時代】

私は昭和七年九月、台湾南部の都市、台南市で生まれました。
日本の台湾統治が始まって三十八年目のことでした。

ちょうど一年前の昭和六年九月には、満州事変が起こっており、翌年三月には「満州国」が建国
されました。

同年十月に、国際連盟が満州国を否定すると、連盟の創立国であり常任理事国でもあった日本は、
国際連盟を脱退し、日本を取り巻く国際情勢が騒然としてきた頃のことでした。

小鳥が生まれて初めて見たものをお母さんだと思うように、私も日本を母国と感じていました。
もちろん、子供時代は自分のことを日本人だと信じて疑っていませんでした。

名前も、昭和十五年の改姓名によって楊素秋から弘山喜美子という日本名をもっていました。

本章では日本統治時代のことを述べていきますが、ひと言で言うと、日本時代は、私にとって
パラダイスでした。
良いことだらけで何から話してよいか分からない、と言って信じてもらえるでしょうか。

私が生まれた台南は、昔、都が置かれお城があった名残から、「府城」と呼ばれていました。
中でも「台南府城」の出身というと、台南の中でも城壁に囲まれた中心街の出身ということを表し、
ここの出身者はプライドがありました。
私は、その「台南府城」の出身です。

台北が東京に喩えられるのに対して、台南はよく京都に喩えられます。
台南の人々はエレガントで言葉が優雅なのです。

もっとも、完璧主義でこだわりがあるのが欠点で、一般には台南出身者はケチで堅苦しくて
うるさいという風に言われてもいます。

日本時代の台湾は、町全体が豊かで、特に台南はゆったりと時間が流れているようでした。
よく町の孔子廟では、詩人や文人が詩を作ってお互いに交換しあって楽しんでいました。

非常に安定した社会で、隣近所とは互いに信頼し合い、相互の信頼関係、
人と人との絆が素晴らしかったのです。
ですから、どこに行っても安心出来ました。
それこそ「枕を高くして寝る」ことが出来る世の中でした。

一方、今はどうでしょう。
外を歩いていて何か話しかけてくる人があると、警戒心と不信感がまず頭をもたげてしまいます。

また、現在の台湾の町並みを見てもらえば分かりますが、どの家にも鉄格子が付けてあります。
まるで、自分で作った牢屋に自分で住んでいるかのようです。

私の家もマンションの玄関のドアが二重にしてあり、窓には鉄格子がしてあります。
それでも、空き巣に綺麗に洗いざらい盗られたことがありました。
私は鉄格子の無い家に住みたいとつくづく思うのです。

鉄格子の無い家で、戸締まりをしなくても安心して眠ることが出来た日本時代に戻りたいのです。

道端で品物を拾っても、決して自分のものにすることのない時代にしたいのです。

日本時代は、人民は政府を信頼していました。
そして、それに応えるかのように政府も人民の生活を良くしてあげたいという気持ちを表していました。

また、兵隊さんも、先生方も、お巡りさんも良くしてくれ、町中至る所にいい雰囲気が溢れていました。

もしもタイムマシンで元に戻れるのなら、もう一度日本時代に戻りたいのです。
あの平和で穏やかな時代に。


【日本統治の功績】

台湾には濁水渓という大きな川があります。
この川は、濁った水と清水とが右左に分かれて流れ、どんなに嵐が来ても大水が来ても決して
混ざり合わないのです。

昔、老人たちはよく言っていたものです。
濁水渓の水が澄んだら天下泰平になる、と。
そして、その濁水渓の水が、日本軍が台湾を接収しに上陸した時、五日間だけ綺麗になったと
伝えられていました。
五日間澄んだので、人々は日本の統治はきっと五十年だろうと噂していました。

日清戦争に勝利し、清国から台湾を接収した日本は、新領土である台湾を素晴らしい島と思い、
日本と同じ、いや、それ以上のものを台湾に作ろうとしたように思えます。

台湾総督府は、「百年計画」という都市計画に則って台湾の産業や生活の基礎を築いていきました。

それがどれほど優れているものだったかという証拠に、
現在の台湾の都市計画は、日本時代の都市計画に基づいているのです。

台北を走るMRT(地下鉄)や、上下水道、台湾の南北を繋ぐ縦貫鉄道や縦貫道路、等々全てです。

それらの中には戦後に台湾に来た中国人が作ったと言われているものもありますが、それは間違いです。
全部日本人が設計して作ったものです。

鉄道の台南駅、新竹駅、台中駅、高雄駅などはどれも芸術的にも優れています。
高雄駅などはまるでお城のように立派に建てられ、あまりに素晴らしいので、
狭くなって建て替えた時も、壊すにはもったいなくて、下から掘り起こして移築したほどでした。

また、日本人は教育にも力を入れていて、新しい土地に行くと必ず学校を作りました。
台湾でも大学から中学校(現在の中学と高等学校を合わせたものに相当)、小学校、幼稚園まで作り、
しかも、当時の日本よりも立派な建物でした。
台湾大学も東大をモデルに作られています。

台湾から東京の医学専門学校に入る人がいたのですから、
どのくらい台湾を立派な国にしようと思っていたかが伺い知れます。

私の考えでは、当時は内地(日本)から人材を派遣することがなかなか難しかったので、
ここ台湾で人材を養成して、この国の基礎固めを手助けするという形をとったのではないでしょうか。
あるいは、もっと広大な思想の下に行ったのかもしれません。

更に、素晴らしかった点は、造林に精を出したことです。
木を植える国は発展します。  木を伐ってしまう国は必ず潰れます。

なぜなら、木というのは山の神様だからです。
神様を大切にしなければ国は発展しません。

その点、日本の造林は本当によく出来ていました。
樹齢が何年以上のものはいつ伐採すると、きちんと番号をつけて管理していたのだそうです。

そして、伐採した木の跡にはすぐに苗を植えました。
伐ったら何十年でちょうどこちらの山の木が大きくなっているという具合に山一つを百年計画で伐っていたというのです。

ところが、終戦後、中国人が来てからというもの、ほとんどの木、特に桧を伐採してしまいました。

しかも、彼ら中国人は根っこまで掘り出して屏風にしてしまったのです。
ですから、今では土砂崩れといった災害があちこちで起きていますが、当然の結果と言えるでしょう。

国民党は台湾に来て壊すばかりで何の計画もしませんでした。
それどころか、日本のものといったら神社の鳥居までも全部壊してしまいました。

韓国でも日本は台湾と同様の統治をしたと思いますが、
韓国は日本に「ありがとう」と言ったことはないようですね。

良いことをしてもらってどうして感謝しないのでしょうか。
私にはそれが不思議で仕方がありません。


****************************  (途中抜粋)


第五章 戦後、中国人がやって来た

【国軍を出迎えに】

前述したように、私は子供の時、自分は日本人だと固く信じていました。
だから悲しかったのです。
突然、「君は今日から中国人だ」と言われた時に。
私も多くの人と同じように「なぜなんだ!?」と言って泣きました。

私は父に、どうして中国人でなければいけないのかと聞きました。
父は返事に窮して「中国人だから中国人だろ…」と口を濁していました。
それ以上私も聞きたくありませんでした。

中学校二年生の時、中国から蒋介石の国軍(国府軍、国民党軍)が来るというので、
早速歓迎のための中国語の歌を無理矢理練習させられました。

しかし、先生も生徒も中国語が全然分からないので、どんな意味の歌を歌っているのか、
ちんぷんかんぷんで全く分かりませんでした。
ただ、先生の発音を真似して歌っているだけでしたので、私はずいぶん年をとった後も、
その歌の内容が分かりませんでした。

国軍歓迎の式典の日、朝八時に駅に集合と言われて行きました。
しかし、国軍はいつまで経っても来ませんでした。

それで、午後一時に来るから十時に再度集合ということになりました。
ところが、十時に行ってみたのですがまだ来ません。

そこで、昼食を食べに戻ってまた三時に行きましたが、全然来る様子はありません。
更に待つこと二時間、結局来た時には時計の針は五時を指していました。

日本時代は、時間厳守は誰に習ったわけでもなく社会全体の雰囲気でした。

その当たり前の生活習慣に慣れていた私たちにとって、これが初めての「中国時間」の洗礼でした。

敗戦でシナ兵(中国の兵隊)が来ると聞いた時は、もちろん不安でした。
私たちは『キング』や『少年クラブ』、『幼年クラブ』といった雑誌に出て来るシナ兵のイメージが
ものすごく強かったのです。
シナ兵はまず汚い、風紀が乱れている、ボンボロ担いでこうもり傘を背中に差して裸足、
というのを見ていましたから、頭の中で色々と想像を巡らせていました。

不安な気持ちで一杯でした。
そういうシナ兵が潜在意識に植え込まれてはいましたが、本当に見た途端に、もうガックリしました。
これはヒドイ!と思ったのです。
出迎えに来ていたみんながみんな「うわー」と言ったのです。

恐ろしい光景に見えました。

それまで日本兵しか見たことのなかった私は、兵隊というものは銃を担いでゲートルを巻いて
ピシッとしているものだと思っていました。

それが、シナ兵は裸足でボロボロの服を着て、天秤棒にドロ靴と鍋と七輪をぶら下げて、
こうもり傘を担いでだらだらと歩いていました。
中には手で鼻をかんでいる人や痰を吐いている人もいるし、私は呆れてものが言えませんでした。

まるで乞食の行列でした。
そんな兵隊を自国の兵隊として認められますか。

今、その時のシーンを読者の皆さんの前に展開したらきっと気絶すると思います。
女学校の先生方も口をあんぐり開けていました。
台湾人全部が同じ思いだったと言っても過言ではないでしょう。

その時はまだ日本人の先生が学校で教えてはいましたが、日本人の先生は出迎えに来ていませんでした。

これからどうするの?と思いました。

酷くなるとか酷くならないとか、そんな問題ではないのです。

こういう人たちが来て一体どうするのか…と。



【呆れた中国兵】

私の家にもありましたが、当時の電気屋には店先の机の上に電球がつくかどうかを調べる
ソケットがありました。

これは聞いた話ですが、ある電気屋で電球を買って帰った中国兵が、
家に帰って電気をつけてもつかないと文句を言ってきたそうなのです。

電気屋の主人がつかないはずがないと言うと、本当についていないと言うので、
「よし連れていって見せろ」と言って見に行きました。

見た途端に、おやじさんは怒るのを忘れてケラケラ笑い出したのだそうです。

なんとその中国兵は、机に穴を開けてそこに電球を突っ込んでいたのだそうです。

おやじさんは、「僕たちのは線がついていて、ちゃんと電力会社から電気を買っているんだ。
これじゃあつくはずないじゃないか」と言ったのですが、中国兵には、気の毒なことに
電気って何なのか分からないのです。

また、こんなこともありました。
中国人が荒物屋で蛇口を一つ買いました。
台湾の人間が蛇口をひねったら水が出て来るから、これは不思議だといって自分も一つ買ったのです。

それで蛇口をつけて蛇口をひねってみたのですが、水が出ません。
そこで、水が出ないと言って荒物屋のおやじさんを殴ったのです。

おやじさんもなぜ殴られたのか、てんで分からなかったという話です。

そして、その中国人が「お前は詐欺師か。お前の家の水は出るのに、俺の家の水は出ないじゃないか」
と言うのだそうです。

水が出て来ないなどということは、常識で考えてもまずありません。
おやじさんが見に行ってみたら、壁に穴を開けて蛇口だけ付けて水を出そうとしていたというのです。

中国人の生活はそういうレベルだったのでしょう。
私たちには、こう言っては申し訳ないですが、野蛮人みたいでした。


~~~~~~~~~~~~~(前文より)


昭和二十年の八月十五日、日本が第二次世界大戦、つまり大東亜戦争に敗れた年、
私たちが住んでいる台湾は、今まで祖国と言ってきた日本国から切り離され、
選択の余地無しに中国人にさせられてしまいました

君たちの祖国はこっちだよと言葉に蜜つけて侵入してきた外来政府は、
実に天使の面を被った悪魔でした。

国籍を失った台湾人は、それから中国人となり、そして中国籍になったその時から、
悲惨を極める奈落の底に落とされ、イバラの道に追い込まれてしまいました。

外来政府は、謀反を起こしたという烙印を押し、四十年もの長い年月にわたり″戒厳令″という名目で
殺戮を繰り返したのです。

台湾全土の人民を震撼させたあの忌まわしい二・二八事件で殺された人の数は、
当時の政府の圧力により報道されていません。

学生、若者、医者、学識ある者、特に財産を有する者など、
死者は三万人にも上ると言われていますが、確実な数字は今でも分からないそうです。
因みに当時の台湾の人口は、六百万人でした。

戦争で死んだというなら、国のため、国民のため、とある程度納得ができましょう。
しかし、口では「我が同胞」と呼びかけ、国の柱として未来を担う有能な若者、学生に、
謀反の罪を着せ銃で撃ち殺してしまうとは、あまりにも惨いことです。

六百万人の台湾人は、国籍の無きが故に父親、兄弟、夫、親友を殺されてしまいました。
殺された肉親を目にしても涙を流すことすら許されなかったのです。

今の日本の若者は、他国から統治されたことがなく、
裕福で平和な国土で、幸せという座布団にあぐらをかいて過ごしてきたため、
これが当たり前だと思っているのではないでしょうか。

でも、幸せは大切にしなければいけません。
なぜなら幸せは、国が立派であって初めて得ることが出来るものだからです。

国が立派でも、国民の一人一人が立派でなければ、いずれ国は滅びてしまいます。
ですから、若い人たちに呼びかけたいのです。


日本の若者よ、背筋をシャンとしてお立ちなさい。
そして自信と誇りをもって前に進みなさい!


平成十五年十一月九日        
蓬莱島にて 楊 素秋


http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1346.html








ビートたけしのガチバトル2010・ 金美齢 「死んでも中国人になりたくない 」 」

http://www.youtube.com/watch?v=TnvZjPOh5Us&feature=related


「金美齢さんの紹介する台湾人の日本への思い」

http://www.youtube.com/watch?v=5-JhmKCGXas&feature=related


「日本の台湾統治を絶賛するニューヨークタイムズ 1904/9/25 」

http://www.youtube.com/watch?v=cwY1Tu98Wzs&feature=related



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